夕方、17:30。
オランダの冬空は既に真っ暗だ。
曇っていて星や月さえそこには無い。
最近はこの時間にジョギングすることが
密やかな楽しみになっていた。
自家栽培をしたガンジャを
喉を痛めないように
ボングでゆっくり吸う。
ボコボコボコボコ。。。
その白い煙を肺にそっと招き入れる。
少し留めてから、
すーっと長く細く吐き出す。
すぐに意識はシラフの「それ」
とは違うものになる。
グイーーーンっと上に引っ張られるような、
下に沈み込むような不思議な感覚。
この明確な意識の切り替わりを感じる度に、
そういえば、こっちの世界もあったかと、
思い出す感覚に包まれる。
もしこんなことをすれば日本という国では
色々な意味でアウトだろう。
しかし、ここはオランダという異国。
その全てが許容されている。
街中ではいつもその香りが漂い、
人々はハイになって闊歩する。
それがこちらの世界の常識だった。
フワフワした浮遊感を身に纏いながら、
他の住人に迷惑が掛からないように
階段を静かに降りて、
外の暗闇の世界へと足を踏み出す。
踏み出した瞬間には、
新鮮な木々の香りが深く肺に入ってくる。
いや、意識的に思い切り取り入れる。
あぁ、なんて、なんて、爽やかな空氣なのか。
両手を広げて伸びをする。
その素晴らしさに感動すると同時に、
こんなに爽やかな広い世界が
広がっていたのに日中は部屋という
壁で囲まれた空間にずっと居たことを
少し悔やむ。
スマホを操作して、
Apple Musicのブロッサムという
プレイリストを流し始める。
ランダムに再生される優しい音達は、
耳を通り抜けて心身へと流れ込んでくる。
この時期、家々は、キラキラと輝く
イルミネーションを着飾っている。
家によっては本当に見事である。
聴いている曲も相まって、
この暗闇とのコントラストは綺麗だ。
勿論、キリスト教という宗教の行事
だからではあるけれど、
防犯の意味とか、鬱防止の意味も
きっと多分にあるんだろうと思った。
かく言う自分も
この綺麗なイルミネーションには
心が少し和らげられている面がある。
オランダという国において、
自分という人間は外国人であり移民だ。
文化も言語も人々も、
あらやるものが違う。
それに今はオランダの冬。
長くて暗くて寒い期間だ。
自分はこの国に来てから、
多くの新しい経験を積むことができている。
それは、日本に居た時には想像だに
していなかったことばかりだった。
沢山の感動と感謝をしている。
けれど、同時に、
この国の冬のように
いつも長くて暗くて寒い中を
黙々と進み続けてきた感覚があった。
進み続けたその先に光があると信じていた。
しかし、
差別やヨーロッパ特有の文化に壁を感じ、
ある時から、自分は進んでいるのか、
足踏みをしているのか、
よく分からなくなっていた。
ふーっと息を強く出し、
すーっと強く時間を掛けて吸った。
今度は薪を燃やす香りがした。
世界のあらゆる香りの中で、
薪が燃える香りが一番好きだ。
一瞬で脳がほぐれるような、
何かDNAに刻まれている
安堵感スイッチがONになる感覚を伴う。
薪を燃やしくれているどこかの誰かに感謝して、
ゆっくりと静かにジョギングを始めた。
「走る」となると、
大抵は短い早い口呼吸になるものだ。
けれど、敢えて深く一定のリズムを打つような
呼吸を意識して走ることがマイブームだった。
鼻で吸う時、
その空氣が肺の奥の奥まで届くように意識する。
まるで、ベッドシーツを両手でフワッと挙げて下ろす時、
その波動が手前から先端までいってファサッとなるように。
吐く時は口から出す。
遅くもなく早くもないスピードで吐く。
この呼吸のルーティンだけに集中した。
10分も走ると、
森と呼べるような
広い公園が広がっている。
中に入ると濃い木々の香りに包まれる。
無数にある背の高い木々を縫うように、
アスファルトの細い道が続いているが、
連日の雨で泥と枯れ葉と多少の馬糞で
絨毯ができていた。
スマホのライトを付けて、
1人、その上を走っていく。
周りにはもう人の氣配もイルミネーションも無い。
転ばないように注意しながらも、
あくまで呼吸に意識を向けて走る。
時折、ぬかるみを踏んでしまい、
冷たい泥の破片が脛の所まで跳ねた。
ある地点から、
グッと暗くなる場所がある。
木々が鬱蒼として
光がほぼ入り込まなくなる。
違う世界に入り込んでしまったようだ。
やがて、世界の全てが暗闇に包まれ、
スマホの乏しい光だけが唯一の光となる。
もはや、この小さな灯火は意味をあまり成さない。
スマホのライトも消して、
イヤホンも取る。
光と音楽を失った暗闇の森では、
小鳥達の甲高い会話と
自分の呼吸音と走る音だけが響き渡っていた。
私は相変わらず、呼吸に集中し、前へと走る。
ただこれだけ暗いと、
どのくらいのスピードが出ているのかも、
自分はどこに居るのかも分からなくなる。
それでも走り続ける。
呼吸に集中する。
いつからか、あれだけ響き渡っていた
小鳥達の会話が消えている。
自分の身体も消えて、
暗闇の一部になっている。
濃い恐怖と快感が
仲良く手を繋いで後ろからやって来る。
彼らに心を支配されないように、
それでも走る。
呼吸に集中する。
もはや、
自分は進んでいるのか、
足踏みをしているのか、
よく分からなくなった。
やがて、
地面を一定のリズムで蹴る「振動」だけが、
自分という存在になっていた。
それは何を言わずとも
いつも自分を生かし続けてくれている
心臓の鼓動のようなものだった。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
そうだ。
私は生きているのではない。
いつも私は生かされているに過ぎない。
天文学的な奇跡と縁が無数に重なった上の
「今ここ」で生かされている。
でも、このことをつい忘れてしまう。
どこかに光が在ると信じて、
そこを目指して進んでは、
その光が手に入らないと嘆いている。
苦しみ、悲しみ、怒り、泣く。
なぜだろう。
でも、少し上手くいけば、
幸せで、喜び、嬉しみ、笑う。
なぜだろう。
呼吸に集中をしているけれど、
勝手に自分の中で会話が進んでいる。
そんな様子をどこか離れた所から
他人事のように見ていた。
やがて、前方の奥に光が薄く見えてきた。
暗闇の森を抜ける道だ。
すっと森を抜けると、
辺りは街灯や家々で明るかった。
一氣に現実に戻ってきた感じがした。
走るのを徐々にやめて、
歩きに変えていく。
でも呼吸は相変わらず、
一定のリズムを維持していた。
足元は泥でそれなりに汚くなっていた。
吐く息は一瞬白く現れては、
すぐに夜風に消えていった。
熱くなった身体には汗が溢れていた。
心臓の上に手を置いた。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
それは走る時の振動のようだった。
あぁ。。。そうか。。。
負の感情も、
明るい感情も。
人間であれば溢れ出るもの。
その全部を抱きしめ、
味わい、表現する為に、
この宇宙に、この地球に、
人間体験をやりに来た。
そうだ。
きっとこれでいい。
このままでいい。
嘆いてもいい。
喜んでもいい。
どこかに光があるのではない。
どこかを目指す、
「歩み」それ自体が光そのものなんだ。
心臓は徐々に穏やかさを取り戻しつつある。
冷たい夜風が一瞬、
ビュウっと私を通り過ぎていった。


