画家になるまでのキセキ / 美大にも行かずに画家になった不思議なお話

Profile

 

Kota

ワンネス・アーティスト

画家

 

 

性格:

温和。誰とでも打ち解ける。話をよく聴く。好奇心旺盛。

 

好きなこと:

自然。生き物。旅。本。サウナ。銭湯。写真。音楽。料理。食事。運動。

 

苦手なこと:

常識。固定概念。

 

美大にも行ってない僕が画家になったお話

この人生ではアートで世界に貢献しよう。

 

いつも作品を拝見いただき、誠にありがとうございます!

どのようなことを経て画家として活動するようになったのか、その軌跡をまとめました。

 

どのようなことを経て画家として活動するようになったのか

画家になるまでの軌跡を結構長い文でまとめています。お時間がある際にでも読んでいただけたら幸いです。

読み進めていく中で「画家になる為にそんなこと関係あるのか?」と思う個所もあるかもしれませんが、こんな人生もあるんだなぁと1人の人間の半生の物語を読むような感覚でお読みいただけると幸いです。そして何か得る物がありましたら嬉しく思います。

個人的には一見、画家と関係の無さそうな出来事こそ画家になる為の要素であると思ってます。それは自分しか経験していないことであり、それが作品に滲み出るものだからです。生まれてから今に至るまでの全ての出来事は布石だと感じている程です。

 

今こうして生きていることの感謝です。

食べる物があり、雨風がしのげる家があることに感謝です。

そして、絵を描けることに感謝です。

 

それもいつも支えてくださる皆さまのお陰様です。

いつも本当に本当にありがとうございます。

それでは、始まります!

内氣な幼少期

5歳の時。タイヤ公園の絵。

1990年7月7日 / 東京都大田区。

多摩川が流れる工場街で4人兄弟の3男として生まれ育ちました。

運動や虫取りが好きで活発だった反面、人見知りが激しく、恥ずかしがり屋なとても内氣な子供でした。何か自分の意見を言うと怒られると思っていたので無言でいることよくありました。周りの大人達からは「静かな大人しい子」というイメージが付いていました。

2人の兄の年上グループの後をついて行くようになるけど、その遊んでいる姿を遠くから一人で見ている。。

そんな記憶が強くあります。

 

2人の兄は学校の成績は全て満点、オール5、生徒会長を勤めるなど超優等生タイプでした。当然、その弟である僕は周りからの期待は高かったですが彼らのようにはなれませんでした。僕は学校の勉強は大の苦手だったのです。その為か劣等感を強く抱えていました。しかし、唯一、絵だけはよく褒められていたので自然と好きになりました。これだけは兄よりも誰よりも秀でているものだと思っていました。

 

そのような性格や環境もあり、一人で黙々と自由に想いを表現でき、静かに自分と向き合える絵は特別で大好きでした。

 

美術と葛藤

自画像のデッサン

時はグッと進み、、高校生になった頃。僕は都立つばさ総合高校に入学しました。

「もっと上手くなりたい!」

「自分は誰よりも秀でているんだ!」

ずっとそう信じて疑わなかった美術を集中的に学ぶことに挑戦しました。

(これが後の絵描きとしての基礎スキルを学んだ場所になります。)

 

だが、しかし、「自分は誰よりも絵では秀でている!」という考えは、

自分の世界の中だけだと言う現実を知るのでした。

実際には「お、同い年でこんなに上手い人達が存在しているのか。。」でした。

 

小中学よりも広いエリアから集まった生徒達の画力レベルは自分よりも全然高く。。自分の力量と比べしまい何度も心が折れました。。

 

必死に追いつこうと放課後の学校、深夜の自宅で練習を繰り返す日々。

他の授業中は居眠りをすることも多かったです。

運良く本当に優しく指導に熱心な先生達にも恵まれました。

その甲斐もあり、自他共に上達が認められるようになっていきました。

 

木炭デッサン。素描の授業にて。

 

そんな矢先にもう進路をどうするかを迫られる時期が来ていました。

担任の先生の「あなたはこの先、どうしたい?」という普通の質問が当時の僕には胸を締め付けるような質問でした。

将来の莫大な不安、周りの圧力、メディアの印象。。

 

「実際、自分は絵で生きていけないだろう。。」

 

目に見えない「恐怖の力」というものに支配された僕は自分自身で「自分には無理だ」と決め付けました。

 

さらに、当時は家庭が崩壊しかかっていたこともあり、ひどく悩み、葛藤した結果、絵で生きていく道を挫折することにしました。

 

「。。。絵はやめよう。」

 

美大に行く道などはやめて、社会のレールに沿う形で普通大学に進むことにしました。

 

世界は広かった

留学先の街並み

家の近くにあった神奈川県の鶴見大学に進学しました。英米文学を専攻し、3年時には運良く交換留学生としてオーストラリアの大学に長期滞在をしました。そこは現地人も知らないような山の上にある小さな小さな田舎街でした。何も無く、ただただ大自然が広がり、放課後の校庭にはカンガルーが飛び跳ねてたり、ホームステイ先の庭の木にはコアラがいる。そんな異世界でした。

 

たったの9ヶ月間の滞在。

だけれど、この時の経験が人生に大きな衝撃を与えるには充分でした。

 

永遠に広がる乾いた赤い広大な大地。

突き抜ける程カラっとした高い空と風。

奇妙な生態の植物や動物。

 

「え、なぜ!?」が連発する多種多様の人種の文化、風習、生活。

また、逆に他の国々の人々も僕の行動、振る舞い、考え方に「え、なぜ!?」と思っていたようでした。

 

自分の当たり前は、当たり前じゃなかった。

 

世界の広さ・自由さ。

 

その場で体験して初めて心で分かること。

 

色々な考えを持っていて良い。

 

でもそれを人に押し付けてはいけない。

 

クラスメイトと

 

オーストラリア人であるホストファミリーは食器を洗う時にちゃんと水で濯がず、泡がたっぷりついたままでOKというルールがありました。理由はその方がお皿がピカピカするからということでした。

 

ベトナム系のクラスメイトは「これは食べれるんだぞ!今日食べる!」と言って道路脇の沼のような所で家族総出で雑草を楽しそうに沢山むしっていました。

 

イスラム系のクラスメイトは毎日決まった時間に額を地面につけて礼拝とお祈りをしてました。ある時期が来ると太陽が出ている間は一切の食物も水も口にしなかったりも。(ラマダンという文化)。また男性同士で友達の証として手を握って歩く習慣がありました。イスラム系の30代男性の生徒達は下校時に皆んなで手繋ぎしていました。彼らと仲良くなるといつの日からか僕もその手繋ぎに参加するようになりましたが、正直恥ずかしかったのでパーカーのフードを深く被って顔を隠したりしていました。

 

リビアのクラスメイトは国でちょうど内戦が始まってしまいました。普段は人を笑わすことが大好きな面白いリビア人のおじさんがある日から凄く深刻な顔を浮かべていました。その日から彼には人を笑わす余裕がなくなっていたことが明白でした。

 

今まで知らなかったことが連続する毎日。

 

脳がスパークするほど驚きの日々を通して、これまで自分が信じてきた「常識」「正しいこと」というものが、ゆっくりと、しかし確実に崩れ始めていました。

 

社会のレール

お昼休み

帰国をして再び始まった日本の生活。

やっぱり日本のご飯は一番美味しい。全部が日本語対応だし、買い物も交通も便利なことが多いなぁと日本の良さを味わっていました。

 

しかし、周りと明らかに感じる「ズレ。違和感。」

 

「社会のレールからはみ出してはいけない。」

「常識通りに生きないといけない。」

という根強くそびえ立った考えが心の底にある一方で、、

 

「自由で良い」

という考えが空高く自由に飛んでいる。

 

そうこうしている内に周りの友人達は内定を貰い始め、焦りを感じる日々。

 

「自由で良いんだ。それなら、自分はまた海外で暮らそう。」

という強く明るい想いの裏腹がある。

 

一方で

「海外に行って何ができるのか。社会のレールを踏み外してしまう。」

という恐怖と不安。

 

せっかく自分の中の世界はずっと広くなり自分は変わったと思ったのに、幼い頃から積み重ねてきた「常識」と言う芯は崩れてはいませんでした。

 

またまた「恐怖の力」が力強く僕を支配しました。

 

僕は、また周りに合わせる形で一般企業に就職をすることになりました。

 

無事に就職をして一安心したものの、人の命が掛かっている特殊な通信機器を取り扱う大変な仕事でした。責任が大きい仕事柄、褒められるよりも、怒られる方がずっと多い日々。残業代は出ないのに文字通り朝から晩まで業務をこなす、絵に描いたような社畜のような暮らし。深夜0時を越えても鳴り響く着信音、電話の向こうで怒鳴る声。食欲は段々と減っていき、上手く寝付けない日々でした。当時の上司からの強いパワハラもあり、自分の精神がボロボロと静かに音を立てて崩れ落ちていく感覚がありました。

 

ふと、地下鉄の満員電車でガラス越しに反射した僕は別の誰かに見えました。

「このまま生きていくことが正解なのだろうか?人生とはなんなのだろうか?」

 

しかし、、会社を辞めることは怖かった。

社会のレールから外れたくはなかった。

 

苦しくて食事が一切喉を通らない日もありました。

全く寝れない時もありました。

そんな時は布団の中で絵を描いていました。

 

今思うと、ヒーリングアートという絵を描くことで自分を癒す行動を自発的にやっていたのだと思います。

言葉じゃない形で内面を吐露していたのです。

絵を描くだけで本当に不思議とフッと氣持ちが楽になるのでした。

 

「絵はやめようと決めたのに、やっぱり自分にとって絵は良いなぁ。。」

なんてしみじみ思ってました。

 

夜に描いてた絵の一つ

 

何度も困難にぶつかり、必死で考えて考えて行動。「辞めたい」と何百回も思ったけれど、逆にそんなストレス環境があったからこそ「考える力」といものが付いてきた感覚がありました。それはまるで筋トレで筋肉に負荷を掛けて少しづつ力が付いてくるような感じでした。

1年、2年と経つにつれ褒められることが増えて良い成績も出せるようになっていました。プライベートでもかけがえの無い人達に囲まれ、こういう暮らしも良いなと思えるようになっていました。

 

しかし心のどこかで「自分はまた海外で暮らそう」の火は消えることなく、ずっと燻っていたのです。

ふつふつと広がる「やりたい」という熱エネルギー。でも辞めることは怖い。

 

今のこの生活も無くしたくない。

大切な人達と離れたくない。。。

でもやっぱり行ってみたい。

 

「やりたい」と「このままが良い」心の中で相反する力がまるで陰陽のシンボルマークのようにグルグル回る。。

 

悩みに悩んで、悩み抜ぬきました、、、

 

きっと今動かないとこの先僕は一生動けない人間になると思いました。

今一度自分と向き合いたいと強く想いました。

 

 

「今。行こう。」

 

3年間必死に働いた会社を退職しました。
スーツを優しくたたみました。
代わりに大きなバックパックを背負いました。
まだ内心ビクビクしている自分もいましたが、

この決断は国外へと踏み出す一歩であり、社会のレールからも踏み出す一歩でもあり、恐怖の力に打ち勝つ一歩でもあり、画家になる一歩でもありました。

 

旅の間は美しいと感じた瞬間を切り取れるカメラの魅了され多くの写真を撮りました。

今思うと、写真を撮り、見返し、感じたことを文字にしたり考えるという方法でこの世界と、自分自身と向き合っていたのだと思います。少しずつ本来の自分に戻っていく感覚がありました。

 

それでは、旅編がスタートします。

海外生活で農業

バンクーバーの中心街

ついに始まった海外生活!

 

まずはワーキングホリデーのビザを使ってカナダのバンクーバーに渡りました。東京に比べると遥かに小さく、自然が沢山広がっていたので空氣が美味しく、海と山が近くて、素敵な場所に来れたかも!と思ってました。

 

この旅生活では、世界的名著の「アルケミスト」という小説を何回も何回も読んでいた僕はその物語の主人公のように生きたいと思っていました。(旅する少年の話です。人生哲学が詰まっていてオススメの本です!)

 

それは「前兆を読んで自分の感覚に従って生きる」と言う生き方でした。

そして、ずっと燻っていた熱エネルギーを多くの挑戦の動力に充てるんだと意気揚々でした。

 

しかし、、ここで順風満帆とは行かず。。
新たな試練の到来するのです。

いきなり人種差別を街中の人達から受けることになりました。

直接的に暴力を受けた訳じゃない。

けれど、町中の出会う殆どの人が明らかに自分を避けている。

 

まるで自分は半径2、3m程の透明の球体の中にいて、その中に人は入らないようにしたり、入ったらササッと小走りするのでした。まるで超能力者です。バスや電車などの公共機関ではほぼ必ず座席を独り占め状態です。

 

「差別を受ける立場がこんなにも辛いとは考えもしなかった。。」

「まさか自分が。。」

そんなこともあってか、猛烈なホームシックが襲ってきました。

 

辛い時、人は自然を求める生き物なんだと思います。僕は必死に逃げるようにして自然を求めて近くの離島へ引っ越しをしたのでした。バンクバーに滞在していた期間は僅かに1ヶ月間だけでした。

野良鹿

幸いその離島では差別はありませんでした!

そして島生活では、数ヶ月間2つの農場で住み込みで働きました。

WWOOF(ウーフ)というコミュニティを利用したものです。無料で寝食と農業経験を提供するオーガニック農場と、対価として農業の仕事を無料で手伝う労働者をマッチングさせるコミュニティです。(日本も含め、世界中にあるので興味のある人は是非!調べてみてください!)

 

さて、炎天下の下での広大な土地の農作業はそれなりに大変でした。

毎日、汗をダラダラかいて、日によっては家畜の大量の糞を掃除しました。

丁寧にお世話をして、やっと収穫できる野菜。

それが鳥肌が立つほど本当に美味しかった。。

 

こんな美味しいもの土から生えてくるのが不思議でたまりませんでした。

 

朝露

日中の作業で土まみれになる日は、「えい!」と海に飛び込みました。夜空、無数の星が散らばる下の壊れたキャンピングカーやテントで眠りました。より自然的で人間的な生活のようにも思えました。子供の頃の自分が、まさか大人になったらこんな自然的な暮らしをするとは思ってもみなかっただろうなと思うと不思議な感覚に包まれました。

 

心地良いその環境にずっと滞在することも可能でした。

でも、再び動く日が「ぬっ」とやってきたのでした。

ある日の夜、アラスカに行く不思議な夢を見たのです。

 

広大な美しい自然の景色が広がっていました。。

それは妙にリアルで、頬を撫でる冷たい木々の風を感じました。

写真業界では有名なアラスカ写真家の星野道夫さんも出てきました。

きっと何かしらの前兆だと感じました。

 

今動きたい。この衝動を抑えたくない。

前兆を特に大事にすることが自分との約束でした。

だから、アラスカに行くことはすぐに決めました。

 

でも色々な因果でどうせアラスカまで行くなら、もっと色々な場所を見てから行こうと思ってしまったのです。

なので一旦、アメリカ大陸の右端の方まで飛び、そこから陸路で数ヶ月間かけて、大陸の左端にあるアラスカを目指してアメリカ大陸を横断する旅をすることにしました。この旅を達成するエネルギーは自分の中に十分あると思っていました。

 

その旅の計画をお世話になっていた農家のおじいさんにワクワクしながら話しました。しかし、おじいさんは「おいおいクレイジーだ。ダメダメ!無理だろ!」と、目を見開いて全否定しました。このことに僕はひどくショックを受けて、旅を断念するか悩みました。でもやっぱり自分を信じることを優先したいと思いました。

 

農場を離れる数日前まで、僕達は少しギクシャクして会話らしい会話をしてませんでした。でもある日の夜ご飯の時。

虫の大合唱が鳴り響く家の外とは対照的に、とても静かな家の中でおじさんは絞り出すように僕にこう優しく言ってくれました。

 

「ここには君の帰る場所があるから、いつでもすぐ帰ってきなさい。」

 

この時に初めて、彼なりの優しさが強く僕に前から向けられていたことを知りました。

 

(農場を出る日の思い出はコチラ)

フェリーを待つ間

過酷な移動生活

旅の途上。シカゴにて。

 

お金をあまり掛けたくなったので、夜行バスやヒッチハイクなどの陸路で移動しました。宿泊先は、各街の見知らぬ人の家々のソファで寝かせて貰うという移動生活を繰り返しました。

カウチサーフィンというコミュニティを利用したものです。

 

わざわざ無償で見ず知らずの旅人を泊めてくれる人は、本当に様々でした。

本当に優しい人、見返りを期待する人、寂しい人などがいました。今もたまに連絡を取る仲の人もいます。

 

毎日、数えきれない人や景色と出会うことは、非日常でとても刺激的でした。

我ながらふと「今旅してるなぁ」と楽しく思ってました。

 

しかし、やはり勿論楽しいことだけじゃなく。

少し危険を感じる人の家にも泊まったり、詐欺に会い大金を無くしたりもしました。

 

何より「すぐに帰れる家がない・明日泊まれる場所があるのかもわからない」という日々が続くことは精神的にかなり来るものがありました。

 

疲労、睡眠不足、トラブルが全て重なる日は無性に悲しくなりました。自分はこんな想いをする為に日本を出て来たのか?と自問自答しました。親に大学まで進学させて貰い、新卒で都内の会社で就職も出来たのに僕は辞めてしまった。親は旅にも反対していたことなど色々なネガティブな思いが溢れ出ては罪悪感に襲われました。

1人凍えるレンタカーの車内で車中泊していた夜、もう立派な大人ではありましたが、恥ずかしながら、子供のようにワンワンと泣きじゃくっていました。

移動生活中の絵。泊めてくれた人にあげたら大喜びしてくれた。

そんな非日常だった移動生活が日常に変わってきた頃。人々の姿がTシャツ姿からジャケット姿に変わり始めた頃に、ついに僕はアラスカに到着していました!(ロッキーマウンテンあたりの街から飛行機でアラスカ・フェアバンクスまで飛びました。だから、厳密には陸路半分、空路半分でした。)

 

やった!!!

 

ただ、そこはもう凄〜く寒い氣温になっていました。

地球との繋がり

オーロラ

移動生活のゴール地点でもあったアラスカは特別な場所だと感じてました。

この時もカウチサーフィンを利用して一か所にしばらく滞在しました。

 

しかし、なんと、この時のオーナーは家を丸ごと無料で貸してくれました。その家には他の国々から集まる旅人が何人か溜っており、旅人ハウスのようになっていました。しかも誰もが無料で居たいだけ居ても良い。美味しいご飯も無料で提供するという羽振り。

 

この世界には、本当に色々な人がいるなぁと思ってました。

 

そして「もう追われるように急いで移動しなくて良い」「泊まる場所がある」これらは凄く心の安定になっていることがわかりました。

 

なので、意気投合した旅人ハウスの仲間達と観光らしいことをしてみました。

皆んなでデナリ公園に行ったり、温泉に行ったり、オーロラを見に行ったりしました。

 

旅仲間達と。デナリ公園にて。

 

そんなことしている内にご縁が重なり、偶然か必然か、アラスカの森の中で暮らすとある家族のお家に数ヶ月間もお世話になることになりました。ちなみに、ここでもWWOOFを利用しました。

 

そこでの超ワイルドな生活が人生における掛け替えのない大切な教えになりました。

 

マイナス20度を下回る屋外での肉体労働。

どこまでも白い世界。

巨大な野生動物達。

 

カリブーの群れ

狩人だったおじさんは外で鳥や鹿を見ると「ディナーだ!!」と言って喜んで銃で仕留めて、晩御飯としてご馳走させてくれました。大切にお世話をしていた家畜として飼っていた動物も「ごめんね、ありがとう」と話しかけて殺し、料理して食べました。

 

命を奪う度に感じる言葉に出来ない内部からの強い衝動。まだまだ温かい屍体。

新鮮で身震いする程に美味しいさっきまで生きていた彼ら。

「いただきます」の言葉の真意が心で響き渡るのでした。

 

また、暖を取る為には森に入り、大きな古い木を切りに行きました。

飲み水を確保する為には泉まで汲みに行きました。

 

全てが凍る真っ白な世界の中に、ポツンと立つ彼らの手作りの木製の家の中は世界一暖かいと感じました。

火を囲んで毎日笑い合った和気あいあいとした家族がそこにありました。

 

アラスカの家族

 

彼らと一緒に生活をしているうちに、彼らの言う「地球との繋がり」の感覚を思い出すような感覚がありました。それは、すっかり忘れていた感覚でした。

 

生きるということは他の命をいただいているという事実。食事をする前の「いただきます」の言葉の重さ。

 

他の者がいて自分が生かされる。

自分も他を生かしている。

 

自分達もやがて死に、地球に還る事実。

 

人の温かさ。人の優しさ。

自分のことだけでなく他を想いやれる心。

 

それらは、人間という生物として、この地球という星に生きる上で大事なことであると強く感じるようになりました。

 

(アラスカの思い出はコチラ)

・アラスカンライター

ネイティブ・アメリカン

公園にて

ビザの滞在期間の関係で、本格的な冬が始まりだそうとしていたアラスカ生活に終止符を打ちました。

そのまま南下して海外生活の最初の場所カナダのバンクーバーに再び戻りました。

きっと戻る運命にあったんだと思います。

 

やはり差別は相変わらず受けていました。だから、すっかり開き直ってスラム街の近くに住みました。

 

道路の両脇にヘロイン中毒者達がゴロゴロと転がっているような異様な景観でした。しかし、なぜかそんなエリアで暮らしてみようと思ったのです。そしてまだワーキングホリデービザが有効期間だったので数ヶ月間、現地人に混じってカフェやレストランでも働いてもみました。

 

生活をしていく中で、ふとある大きな氣付きました。

不思議と他の都市では差別を受けていなかったのです。

またこの街にいる他の日本人達は差別を受けていない。。

 

「なぜ自分だけなのか????」

 

自分は何か特殊な匂いが出てる?

目つきが悪い?

あなたは同じような体験はない?

 

その答えを知りたくて、もうとにかく、恥を捨てて色々な人に訊いて周りました。

そして、遂にその理由がわかったのでした!!!

それは本当に本当に全く予想外な答えでした。

 

このバンクーバーという街はカナダ内では冬も比較的温暖なのでカナダ中のホームレス達が集まってくる傾向があること。

その多くはネイティブ・アメリカンと呼ばれる原住民の人達だということ。彼らは長きに渡り迫害と差別の対象であること。

 

そして、なんと、、、

当時の自分の容姿(浅黒い肌、黒い長髪など)がネイティブ・アメリカン達と酷似していたということでした。。!

 

 

「いやそんなのわかるかーい!!!!!」

とビシッとツッコミを入れたい心境と「やっとわかった!やったぞ!」と答えを見つけた喜びが混じった不思議な感情が芽生えました。

 

容姿がネイティブ・アメリカンに似てた。

 

彼らについて調べていくと色々な事情が分かりました。本来は神秘的な価値観と生き方があるけど、現在は多くの人達は目を背けたくなるような悲惨な歴史背景があること。現在も続く過酷な環境により、本来の姿から駆け離れていると知りました。僕は調べるほどに彼らの魅力にハマっていきました。

 

ずっと昔の太古から地球との繋がりを大事にする文化。

自然へのリスペクト。

神聖な価値観と考え方。

 

彼らの昔からの伝統的な考え方はアラスカで僕がやっとのことで学べた人間という生物として地球という星に生きることにおいて大事な教訓と非常に似ていました。自然と僕は彼らを尊敬するようになり、彼らに似ていることを誇らしく思ようになりました。

 

またスラム街のシェルター(州が無料提供している寝泊まり出来る建物)や路上に住んでる彼らと直接話しに行ったりもしました。多くの人はドラッグかアルコールの中毒で終始ボーッとしていましたが、普通に会話が成り立つ人々もいました。

 

そして、闇の部分も含めて多くのことを知りました。。

各々が想像を遥かに超える事情を抱えて今の状況になっていることもわかりました。。

 

もし、もう少し詳しく知りたい方は下記から

・闇の日々

かなりダークであり、公にならない内容です。

 

 

 

どんな人間でも、

「充分な愛」と「正しい教育」の両方どちらかでも不足すれば人は人として生きることが難しくなる。特に「子供時代」と言う期間はとってもとっても大事なんだ。そう強く思うようになりました。

 

そんな色々あったバンクーバーを出て、今度はアメリカ大陸を南下する縦断の旅をすることにしました。これを最後の旅として進めるだけ進んで、帰りたい時になったら日本に帰ろうと決めていました。

 

キノコ村

ここまでお読みの方!

長らくお付き合いいただきありがとうございます。

幼少期、学生時代、社会人、旅生活と続きましたがいよいよ最終章であり、最も衝撃的で大事なパートになります。。

 

アメリカ、モニュメントバレーにて。

結果的にはカナダ、アメリカ、メキシコ、キューバ、グアテマラ、コスタリカと進んで日本へと帰国したのですが、道中に本当に多くの物語りが生まれました。。

 

地平線まで続く荒野。

インクを落としたような美しい青い海。

うじゃうじゃ生物が動き回るジャングル。

キャンプ生活。巨大遺跡。優しい人々。

数々のキラキラした思い出があります。

 

また時に早朝の薄暗い森の中で野犬の群れに囲まれたりもしました。ギャングと警官隊の銃撃戦の抗争に巻き込まれかけたり、登山した山で高山病になり幻覚を見たり、何度か明確に「今、僕は死ぬかもしれない」ということを意識しました。

 

グアテマラ。山の頂上にて。

 

とても全ては書ききれないので、ここでは省略します。。

もしも機会があり、興味があればお話しさせていただきます!

 

(キューバの思い出はコチラ)

どんな目

カリブ海の夕陽

 

ですが、メキシコでの神秘的な体験だけはここに記したいと思います。

 

この経験が僕の人生、価値観、考え方を、宇宙規模で変えてしまったと言って良い程の経験でした。

僕が今画家の活動をしているのも、この経験が大きく関係します。

 

オアハカ近くの村のローカルマーケット。

 

それはメキシコ南部にあるオアハカという街を旅していた時のことでした。

 

悪い物に当たり腹痛で街の病院に1週間以上の通院生活をしていました。だんだんと元氣になってきた頃。体力と暇を持て余し始めていました。そろそろまた動き回りたいなと思っていたタイミングでした。

 

「ねぇ、Kota。2、3時間程離れた山の上に小さな村があるんだけど行ってみない?そこは別名キノコ村とも言われてて、幻覚が見えるキノコ?が食べれるらしいよ。」

 

たまたま同じ宿に滞在していた青年が大きなダイニングテーブル越しに言ってきました。彼はスラっと細身で、20歳くらいの今風の元氣な日本男児と言う感じでした。

 

「え、急に何それ!怖いよ!」と僕は笑いながら言い返しましたが、その話が心のどこかに引っかかってました。

ひっそりとスマホで調べてみると、確かにそういう村は存在していることがわかりました。

 

そして検索に引っかかった昔の誰かのブログや記事にも辿り着くと興味が俄然沸いてきました。

その幻覚キノコというものは、古代からシャーマニズム文化の儀式で使われてきたこと。

 

シャーマニズム文化とはあの尊敬するネイティブ・アメリカンの平和的な文化であり、長い長い歴史を持った原始宗教であること。1960年以降のアメリカでのヒッピーブームに関わっていること。アメリカである実験でそのキノコを食べた人達へのインタビューで8割以上の人達が「私は以前よりも他人に優しくなれるようになった。あれは最も素晴らしい経験の一つだ。」と答えていること。

 

など。

 

。。。色々なことが重なって今この現状がある。

 

この前の町で体調が悪くなったおかげで、この青年と出会えた。

 

そして、ちょうど治るタイミングで声を掛けられた。。

 

かなり行きたいかもしれない。。。

 

これは「何かの前兆」かもしれない。

 

とりあえず、現地に行くだけ行ったら良い。

嫌ならまたこの宿に戻れば良いだけの話だ。。

 

2日後の朝、僕たち2人はキノコ村行きのバスに3時間ほど揺られていました。

うとうとしていてましたが、ふと窓の外に目をやるとシトシト雨と深い霧に囲まれた真っ白な世界をバスは慎重に慎重に崖の道を走っているという状態でした。遠い所まで来たんだなと思っていました。無事に村まで辿り着きバスを降りてみると、少し肌寒く、濡れた森の良い匂いがしていました。

 

霧に覆われた山上の小さな村。

 

宿に荷を下ろし少し休憩した後にその青年と2人で村を散策してみました。

 

別名「キノコ村」と言われているだけあって、人が少なく静かで霧に覆われた村の中にはキノコをモチーフにしたアート作品や、サイケデリックアートと呼ばれるカラフルなアートがどこにでもありました。いかにもヒッピーと呼ばれるような長い髪の毛と髭を生やした若い欧米人達がいたり、ずっとそこで生活を営んできた感じの村人達がいました。

 

彼らを見かける度に「幻覚キノコはどこで手に入るの?」と聞いてみました。するとみんな口を揃えてこう答えました。「あぁ、それなら持ってるよ。良ければ僕のを売ろうか?」しかも村の決まりごとなのか皆んなが同じ値段を言いました。

この時、それ以上に印象的だったのは皆が「妙に優しい目」をして微笑んでいたこと。どこか遠くを見ているような、でもこちらの目を真っ直ぐに見つめていて。「そうか。君もここまで遥々来たんだね。」と言いたげな慈愛に満ちた表情。まるで幼稚園生や小学生の卒業式の姿をそっと見届ける親御さんのあの独特な優しい眼差し。

 

「いや、ただ聞いただけだよ。ありがとう。」

 

内心まだ怖かった僕達2人は「どうやら話は本当らしい」と話をしながら宿に戻りました。「ちょっとやっぱ怖いよなぁ」と思う反面、「せっかくここまで来たのだから」という思いがありました。

 

宿のテラスでボーッと霧がかった山を見つめていると宿のおばさんがこちらに向かって歩いてきました。

「やぁ、おばさん。あの、もしかしてあなたもキノコ持ってたりする?」

「ええ、もちろん。欲しいの?」

おばさんは優しく微笑みながら「ついておいで。」と言い、宿に直結している近くの自宅に入っていきました。僕達2人は目を見合わせておばさんの後をついて行きました。すると、自宅の冷蔵庫からまるで「多めにカレー作ってしまったから、良かったら食べない?」とでも言うような凄く自然な感じで大量のキノコが入ったザルを僕達の前に差し出してきました。

 

冷蔵庫から出てきたキノコ

 

「1人5つでワントリップだよ。」

 

家に居た小さい男の子が「これが大きいよ」なんて指さしたりしてました。おばさんは「ほらほら、触ってはダメよ」なんて仕草をしてました。その情景一つ一つがこの村でのありふれた日常の一コマであることを物語っていました。

 

場所が違えば常識も違う。

郷に入れば郷に従え。

 

僕達2人は決意し、おばさんからキノコを買い、その晩に宿の部屋で食べてみました。おばさん推奨の「洗わないでそのまま食べる」を実践したら土も沢山混じっていました。

 

「ジャリッ。ジャリッ。ジャリッ。」とした心地の悪い食感。。

圧倒的な土の香り。。

そして何より最上級に不味い!

苦味というものが本当に半端じゃない。

 

小さい頃に余りの苦さに吐き出した粉薬や芸人がよくやる嗚咽芸の姿などが脳裏をよぎりました。その時に持っていたチーズやスナック菓子で誤魔化そうとしたがこの不味さは払拭できませんでした。これまで生きてきて最も不味い食べ物をやっとのことで咀嚼し飲み込みました。。(いや、食べ物と呼べない。。)

 

 

。。。しかし、何も変化はない。

 

 

1、2時間と経っても一向に変化が無い。。

 

。。おかしい。

 

・・・え?まさか、騙された?

 

僕「これは、もしかして、、、あのおばさんただの不味い普通のキノコをくれたんじゃ?」

青年「おいー、ふざけんなよー!笑」

 

と、笑い合いながら話し合い、まぁ笑いのネタ話には出来るんじゃんと2人でプラスに捉えようとしてました。

 

だが

 

しかし、

 

その時は急に訪れたのでした。。

 


 

これより、かなり常識離れした内容になります(汗)いわゆる、「神秘体験」の話です。もうSFのような内容になってきますのでご覚悟を。。(ゴクリ)

 

キノコ

超常現象

自分達が居た部屋はロッジのように木が組み込まれて出来ていました。そこに大きめのベッドが2台「ドン。ドン。」

と置かれているだけのシンプルな作り。僕は自分のベッドに仰向けで寝転んで、天井の木目をボーッと眺めていました。

 

その時です。

目の前を大きな緑色の綺麗な鳥が悠々と羽ばたいていました。

 

中南米に生息する希少な鳥のケツァールに似てました。この鳥はあの手塚治虫の火の鳥のモデルにもなった鳥でもあります。

 

「・・・あれ?鳥が居る!?」

 

そう思った瞬間に鳥は消えてしまい、部屋も普通の部屋に戻っていました。

 

「。。そうか。これは、いよいよ何かが始まるんだな。」と興奮していましたが、静かに思いました。

 

「やっぱり、あのおばさん。ちゃんとしたキノコを渡してくれたと思うよ」と、僕は青年に言いました。少し離れたベッドに同じように仰向けになっていた青年を見ると彼は静かにこう言い返しました。

 

「うん、天井にチョコワがいっぱいあるね。いっぱい。」

 

よく意味が分からなかったですが、彼の中でも何かが始まっていたようでした。

 

 

ただ暗かった室内が段々とサイケデリックと言われる色彩に変わっていきました。

 

見える物全てがキラキラと鮮やかに光り輝きました。

 

ふわふわ動く幾何学模様は万華鏡のようでもいて、生物や海のようにうねってもいました。

 

噂には聞いていた景色。街中で見たサイケデリックアートのような世界感。

 

「スーゴーッ!そりゃそういうアート描きたくなるよ!」と興奮しながら感動していましたが、同時に「ああ、本当にこういう世界に包まれるんだな〜」と意外と冷静な自分もいました。

 

また不思議な現象は聴覚も巻き込んでいき、聞こえる音は綺麗な波のようなものとして具現化して目で見えたのです。

 

「あ、音はこうやって反響してるのか」壁や天井に当たって返ってくる音の波を目で追いながら考えてました。俗に言う「共感覚」というものが発現していたのだと思います。

 

「これはやばいんじゃないか!」と罪悪感を抱え始めている自分と、「すごい、美しい!心地良い」と感動して肯定する自分。

 

でもそんな現象はまだまだ単なる序章に過ぎなかったのです。。

ここから僕はより深く、深く、不思議な世界へと入っていくのでした。

 

 

 

しばらくして、何を感じたのか青年が唐突に彼の身に起きた過去の出来事を僕に語り始めました。

 

「実はこんなことがあって、、、こんなこともあったんだ。。」

 

その話は僕に出会う前の青年の旅の話でした。どうやらその青年は彼女としばらく一緒に旅をしていたけど、道中でフラれてしまい1人悲しく旅をしていたとのことでした。まるで抱えていた感情を吐露するごとく、彼は喋りながらボロボロと大粒の涙を落とし続けていました。

 

。。とても、とても、不思議な現象でした。

 

「うんうん」と最初僕は静かに聞いていましたが、彼が初めて話すその内容は全部ずっと前から知っていたのです。それも自分の身に起きた話のように。

なので相槌が「ああ、そうだったよね。」になっていくのです。

 

この「前から知っていた」と言う感覚は厳密には、、「世界の記憶を共有している」と言う感覚です。

 

僕はフラれた彼の記憶と感情もあるし、なんとフッた側の彼女の記憶と感情もある。同時に僕は彼の経験した出来事を少し離れた上空から見ている記憶もあるし、その日に彼が仲直りの為に花を買う為に立ち寄った花屋の店主の記憶もありました。

 


 

そして、その次の瞬間。。

 

なんと、僕は、、

 

「今ここにいる青年」になっていました。

 

つまり、、

本来の肉体の僕自身に対して、また別の僕が話をしていたという状況です。

 

 

まさか、

生きているうちに語り手と聞き手を同時にやる日が来るとは。。

 

 

一旦、、、一旦、落ち着こうと、、

 

ベッド脇にあったペットボトルの水を飲みました。

 

すると今度は今まさに自分で飲んだ「水」そのものにもなっていました。

口の中に「それっ」と全身で入って、喉と食道をスルスルと通り抜けて、胃の中へドバドバっと流れていく感覚です。

 

ここまで来ると「もう全てが自分だ」と言う感覚になっていました。

 

きっとあの時の僕はどんな人にも生物にも物にも水にも空氣にでも何にだってなることが出来たのだと思います。

 

そして、僕はその不思議な力を持ったまま、「ビジョン」と言われる別世界へ意識だけがフワフワと飛んでいったのでした。

ワンネス・全ては1つ

ここで一応、説明をしておきます。

「ビジョン」とはネイティブ・アメリカン達の宗教であり文化である「シャーマニズム」の儀式の最中に誘われる別世界のことです。一般的にビジョンを見ると言うと別の世界を旅をする感覚に近いと言われています。

人や環境、精神的な状態などによってそのビジョンの内容は異なりますが、不思議と旅の最後に辿り着く先は似ていたりと、多くの共通点を持っています。

ビジョンを経験すると、以前は無かった人生への氣付き、霊性的な目覚めを得るなどと言われています。

何度もビジョンを行き来し、そして人をビジョンへ導く者達はシャーマンと呼ばれます。

 

あまり知られていないですが古代数万年前の壁画にも描かれている歴史あるものであり、古代よりシャーマンはビジョンより叡智を得て、民衆(ネイティブ・アメリカン達)を平和的に自然と調和しながら生きるように導いてきた歴史があります。

欧米人達を始めとする移民達が介入するまでネイティブアメリカンを始めとする原住民が(例:アボリジナルやアイヌなど)いかに長い間平和的に暮らしていたか調べると色々出てきますので興味あればお調べいただければと思います。

 

以降は僕のビジョンの話になります。

 

。。。

 

。。。。。

 

。。。。。。。

 

ふと、

 

氣が付き目を開けると僕は幼少期の自分になっていました。

 

そうです、あの内気で人見知りな少年です。

 

その小さい僕はかつて通っていた幼稚園の屋外の遊び場にいました。そして何故か目の前には小さい僕を強く叱っている先生がいました。

「あ!この光景、なんか知ってる!」と思いました。

 

それは完全に忘れていた記憶。

でも確かに僕が過去に経験した記憶でした。

 

何を言っても先生に言葉を遮られ、何も分からないまま大きな声で叱られ続ける。

「なぜ、ここまで先生が強く叱るのか。」何も理解できないまま泣きじゃくるだけでした。。

 

そう思い出していると、、、

 

なんと、次の瞬間には、先生の中に入っていたのです。

僕は先生からの目線で小さい僕を叱っていました。

 

あの時は先生に怒られていた、ただ嫌な思い出でしたが、先生にも事情(境遇、性格、感情など)があったことが理解できました。

 

「ああ、そりゃ先生も怒るよな・・」

「この人もこの人なりに大変だったんだなぁ」

と納得と同情をしてしまいました。

 

 

そう思うと今度は、そんな2人の人間のやり取りの光景を、少し離れた所から見ていました。

 

つまり、、

 

僕はビジョンと呼ばれる異世界に意識が飛んで、過去の自分になり、その時に自分に関わっていた人にもなり、さらにその光景を少し離れて客観視もしていたのです。

 

 

先程も書きましたが、ビジョン(精神の旅)はその人の性格、境遇、環境など複合的に絡み合って無限の数の種類があります。それはまるで其々が違う小説を読むような感じとも言われています。

この時の僕のビジョンはこれまでの人生の軌跡を再体験すると言うものだったのです。

 

記憶が鮮明で楽しかったことから、悲しかったトラウマ体験まで繰り返し経験しました。

すっかり忘れていた小学校の時に短い間だけ居た転入生に再会したり。

暖かい太陽の光が窓から入る部屋で、母との日常の何氣無いやり取りなどを少し離れた所から第3者として見つめていたりしました。

 

幼少期、学生時代、社会人、旅生活、そして今の自分に至るまでの人生を細かく、細かく、細かく、、不思議な形で何百回以上と繰り返し、繰り返し、

 

 

 

ガーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!

 

 

 

っと、再体験しました。

 

 

それは、途方もなく永遠のような時間で、膨大な情報と感情のエネルギーが止めどなく僕に流れ続けました。

その猛烈な渦に何度か飲み込まれそうになり、「長いよ!!もういいよ!十分だよぉ!!!!」と途中何度か叫ぶほどでした。

 

しかし、この経験を通して、これまでは断片的にしか見れていなかった相手の本当の姿を初めて見ることが出来たような、そんな氣がしました。

 

心の中の怪獣

 

 

現実時間にしておそらく5、6時間くらい続いたと思います。

しかし、体感時間では短く見積もって「1、2年間くらい」はその世界にいました。

 

つまり、約1、2年間をかけて今まで歩んだ人生の全てをリアルに再体験・再追憶したのです。

 

あの時は分からなかった。。

けれど、相手になることでわかること。

客観視することでわかること。

 

その時は悲しかったり、苦しいと感じていたことも、理解できずにいたことも、全ての出会いも、別れも、物事も、偶然だと思っていたことも、、その全ては必然だった。偶然はなかった。その全ては完璧なタイミングだった。

 

その時の自分だけが最悪だとか、悲しいとか、良かった、偶然だとか決めつけていただけだった。

 

あの時、幼稚園で先生に叱られたことも。

学生時代にアートを挫折したことも。

社会人になりボロボロになったことも。

人種差別にあったことも。

旅生活で死にかけたことも。

 

全ては必要な経験だった。

 

劣等感を抱えていたあの環境があったから、絵にハマった。

絵を挫折したから、普通大学に行って海外留学をして世界の広さを知れた。

激務の会社員になったから、考える力が付いた。素晴らしい出会いもあった。

人種差別にあったから、地球との繋がりを思い出した。人の暖かさを知った。ネイティブ・アメリカンについて、人間について深く考えるようになった。

 

そして今、それらが複合的に存在しているから、一人世界を旅するようになって今、この境地まで来れた。

 

どれも欠けてはいけない。

全てが布石。

 

どれか1つでも欠けていたら全てが成り立たない。。

 

この地球に僕という人間として生きてきたことで、得られた欠け替えの無い素晴らしい体験だ。

 

人生はなんて、なんて、有難く尊いのだろう。。

 

 

そのような一つ一つの事象の点を繋げて、人生の軌跡の流れを俯瞰してみると、それはそれは一本の完璧な美しい線になっていました。。

 

そして知りました。

 

「ああ」

 

「ずっと僕のこの魂は導かれていたんだ」

 

 

僕はこれまで出会えた人達みんなに感謝が止まらなくなりました。

 

そして全ての物にも、事象にも感謝が止まらなくなりました。

涙を大雨のように流し続けました。

 

お互いが居るからお互いが学びあえる。

 

一人じゃ決して味わえない感動、感情、教訓、思い出。

それぞれの魂が地球に学び来ているんだ。

 

お互いが居ることでお互いが生かされている

生きている者たちはみんな他の命を食べて生き延びている。

道具として使っている。

人間も動物も植物も物も水も、この世界の全ては一つだ。。

 

この地球という星を宇宙から俯瞰した時、ただの青い小さい粒のようなものだけど、その中で全てが循環し、完結している。雨になって空から降る水が、大地に落ちて野菜を育てる。育った野菜を動物が食べる、動物を人が食べる。いづれ動物も人も死んで、野菜を育てる大地に還る。

 

考えてみればそうじゃないか。

何かを食べて生きている。誰かに助けられ、誰かを助けている。

僕達は宇宙(愛)のエネルギーを交換し、循環しているだけじゃないか。

 

「全ては愛であり、宇宙である。」

 

歴史上の凄い人達や宗教家の人達が揃えて口にしていたこの言葉。

「胡散臭い。意味わからん。」と鼻で笑ったことさえもあったこの言葉。

それをはっきりと理解してしまいました。

 

相手を愛することは、自分を愛すること。

 

自分を愛することで、他を愛せる。

 

相手を傷つけることは、自分を傷つけること。

 

自分を傷つければ、他も傷つける。

 

皆んな宇宙のエネルギーの一部なんだ。

 

皆んなそれぞれが宇宙のエネルギー(愛)を循環している。

 

それぞれは存在しているだけで価値がある愛の存在だ。。

 

 

 

 

 

 

そうか

 

 

 

 

 

 

 

全てはひとつなんだ。

 

 

この宇宙に存在する

全てはひとつだ。

 

 

わたし達はみんな

ひとつなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

。。。。。。。

 

。。。。。

 

。。。

 

 


 

 

朝日が昇る頃、僕は現実の世界に戻っていました。あれだけ凄い経験をしたばかりなので、何を持ってこの世界が現実と言えるのかとも思っていましたが、ここは現実だと直感的にわかっていました。そして、まだ頭は少しボーッとしていました。

外に出てみるとあれだけ村を覆っていた深い霧はすっかり晴れ、山の隙間からキラキラとした太陽の光が優しく差し込んでいました。

ジャングルに住む鳥と虫達の美しい鳴き声がチロチロチロチロと聴こえていました。

 

大きく深呼吸をすると、相変わらず少し濡れた森のような空氣が肺を満たしてくれていました。

 

そして、僕の頭にずっとあったであろう霧も晴れている感覚がありました。

 

 

ああ。

 

 

これからは人にもっと優しくなろう。

 

1つ1つの出会いを大事にしよう。

 

もっと自分を大事にしよう。

 

またアートをやろう。

 

今回の人生では、アートで世界に貢献しよう。

 

あれから5年経った今でもなお、朝に鳥の声が聴こえると、この村での体験を思い出します。

旅の途上。

そして現在

 

数ヶ月後、僕は無事に日本に帰国しました。

 

ここまで読んでいただき、どう感じたでしょうか?

 

もしかしたら、人によったら「この人ヤバイ人なんじゃない?」と思ったりするかも知れません。

 

僕を以前から知ってる人は僕から離れて行くかも知れません。

 

あるいは、「凄い!」「面白い人だ!」と肯定的に思っていただけてる人もいると思います。

 

そして、これを機に新しい出会いの輪が広がるかも知れません。

 

どう捉えていただいても大丈夫です。

 

しかし、結局の所、このページのここまで読んでいると言うことは、僕達は共鳴し合う似ているもの同士かもしれません。

 

ここまで書いたことは全てが実体験であり、僕のリアルな人生の記録であり、掛け替えのない有難い財産です。

 

全てを通して、やっと心から理解できたことが増え、確実に以前よりも自分にも人に優しくなれたと思ってます。

 

なんというか、、道に迷いながら躓きなら、喜んだり、苦しんだりして歩いて進んでいたところ、うっかり急流の川に入ってしまい、思いもよらぬ所まで来てしまった。でもそれは今思い返すと全てが布石で正しい道のりだった。と言う感覚です。

 

正直まだまだ、、、書けてないことは多くあります。

 

この神秘体験の中でも書けてないこともまだありますし、旅の中では本当に色々なことがありました。それはまだ単純に言語化できなかったり、今はまだ言うべきじゃないと勝手に判断してたりと様々な理由がありますが、いつの日かお話しできたらと想ってます。

 

ただアートにはそういったこともかなり赤裸々に出てしまっています。

 

僕のアートを見る時、何か感じ取って頂けたら嬉しいです。

 

最後に

夜明け

 

帰国してから東京の実家に戻り、色々なジャンルの多くの書籍を読み漁り、youtubeやDVDなどの動画も見漁りました。色々なその道の人々にも会いに行きました。

さらにさらに深いところまでこの世の多くの「光と闇」を知りました。今現在でも勉強を続けていますが、僕が強く感じた「この世界の全ては一つだ」「僕達はみんな、一つなんだ」という考えは「ワンネス」と言われていることがわかりました。

またご縁で氣功師の元で東洋の神秘である「氣功」を学び、習得をしました。

アート作品には沢山の氣功を用いています。

 

僕はこの人生でアートを通して、自分の人生をより深く味わうと同時に、この世界と人類をより良い状態になる為の手助けが出来ると信じています。

 

もしも、生きていて苦しくなったり、力が欲しかったり、自分を見つめ直したいと思った時は僕のアートを観に来てください。原画を直接観られる機会があれば是非とも観にいらして「何か」を感じていただければと思います。

(展示情報)

 

絵からのあなたへの特別なメッセージを受け取り、大事にしていただければ幸いに思います。実際に作品を所有して、いつも実物の目の前に行けて、絵の世界にアクセスできる状態があることがベストな理想ではあります。ご予算を相談していただければ幸いです。

(所有者の声)

 

でも、まずはこのままWebサイトでボーッと眺めるだけでも良いし、パソコンやスマホなどの待ち受けにしても良いと思います。きっと不思議な力を感じてふわふわと癒され力が湧いてくることを実感できます。

 

 

 

わたし達はみんな、

ひとつです。

 

 

 


 

・・・

 

 

ここまで僕の稚拙な文に辛抱強く長くお付き合い下さり、誠にありがとうございます。

貴方の貴重なお時間を共有いただけたこと大変光栄に想います。

 

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直接連絡もSNSなど通していつでもお氣軽にご連絡ください。

どんな内容のメッセージでもいただけることはとても光栄です。

 

旅に関して、作品に関して、何でも聞きたいことがありましたらいつでもご連絡ください。

 

展示活動は自分のペースで出展しています。

いつの日かタイミングが合えば、

機会がありましたら直接お会いしましょう。

 

それはきっと完璧なタイミングで訪れます。

 

それではその時まで。ありがとうございます!

 

 


【コラム集】

カナダの離島から出る日

フェーリを待つ間

 

アラスカの思い出

アラスカンライター

 

ネイティブアメリカンの闇の歴史・現状

闇の日々

 

キューバの思い出

どんな目

カリブ海の夕陽

 

 


【ジャンル】

絵と言葉 | 作品解説

写真と言葉 | 旅の手記

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画家になるまでのキセキ / 美大にも行かずに画家になった不思議なお話” への1件のフィードバック

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