画家になるまでの軌跡

Profile

Kota

ワンネス・アーティスト

画家、写真家、旅人、氣功師、哲学者

 

 

性格   :温和、誰とでも打ち解ける、話をよく聴く、好奇心旺盛、落ち着いてる

好きなこと:自然、生き物、旅、本、サウナ、銭湯、写真、音楽、キャンプ、料理、食事、運動など

苦手なこと:常識、固定概念

 

いつも作品を拝見いただき、誠にありがとうございます!

どのようなことを経て画家として活動するようになったのか、その軌跡をまとめました。

 

どのようなことを経て画家として活動するようになったのか

画家になるまでの軌跡を結構長い文でまとめています。お時間がある際にでも読んでいただけたら幸いです。

読み進めていく中で「画家になる為にそんなこと関係あるのか?」と思う個所もあるかもしれませんが、、こんな人生もあるんだなぁと1人の人間の半生の物語を読むような感覚でお読みいただけると幸いです。そして何か得る物がありましたら嬉しく思います。

個人的には一見、画家と関係の無さそうな出来事こそ画家になる為の要素になっていると思っています。それは自分しか経験していないことであり、それが作品に滲み出るものだからです。生まれてから今に至るまでの全ての出来事は布石だと感じている程です。

 

今こうして生きていること。

食べる物があり、雨風がしのげる家があること。

そして絵を描けることに感謝です。

 

支えてくださる皆さまのお陰様です。

いつも本当に本当にありがとうございます。

 

それでは、始まります!

内氣な幼少期

5歳の時。タイヤ公園の絵。

1990年7月7日 / 東京都大田区。

多摩川が流れる工場街。

4人兄弟の3男として生まれ育ちました。

 

運動や虫取りが好きで活発だった反面、

人見知りが激しく、恥ずかしがり屋なとても内氣な子供でした。

何か自分の意見を言うと怒られると思っていたので無言でいることよくありました。

周りの大人達からは「静かな大人しい子」というイメージが付いていました。

 

2人の兄の年上グループの後をついて行くようになるけど、その遊んでいる姿を遠くから一人で見ている。。

そんな記憶が強くあります。

 

2人の兄は学校の成績は全て満点、オール5、生徒会長を勤めるなど超優等生タイプでした。

当然、その弟である僕は周りからの期待は高かったですが彼らのようにはなれませんでした。

学校の勉強は大の苦手だったのです。

その為か劣等感を強く抱えていました。

が、唯一、絵だけはよく褒められていたので自然と好きになりました。これだけは兄よりも誰よりも秀でているものだと思っていました。

 

そのような性格や環境もあり、一人で黙々と自由に想いを表現できる絵は特別なことでした。

 

美術と葛藤

自画像のデッサン

時はグッと進み、、高校生に。

 

都立つばさ総合高校に入学しました。

「もっと上手くなりたい!自分は誰よりも秀でているんだ!」

と、ずっと信じて疑わなかった美術を集中的に学ぶことに挑戦しました。これが後の絵描きの基礎スキルを学んだ場所になります。

 

しかし「自分は誰よりも絵では秀でている!」という考え。それは自分の世界の中だけだと言う現実を知るのでした。

 

実際には「同い年でこんなに上手い人達が存在しているのか。。」でした。

 

小中学よりも広いエリアから集まった生徒達の画力レベルは自分よりも全然高く。自分の力量と比べしまい何度も心が折れました。。

 

必死に追いつこうと放課後の学校、深夜の自宅で練習を繰り返す日々。他の授業中は居眠りをすることも多かったです。

 

運良く本当に優しく指導に熱心な先生達にも恵まれました。その甲斐もあり、自他共に上達が認められるようになっていきました。

 

木炭デッサン。素描の授業にて。

 

そんな矢先にもう進路をどうするかを迫られる時期が来ていました。担任の先生「あなたはこの先、どうしたい?」

 

将来の莫大な不安、周りの圧力、メディアの印象。。

「実際、自分は絵で生きていけないだろう。。」

 

目に見えない「恐怖の力」というものに支配された僕は自分自身で「自分には無理だ」と決め付けました。

 

さらに、当時は家庭が崩壊しかかっていたこともあり、ひどく悩み、葛藤した結果、絵で生きていく道を挫折することにしました。

 

「。。。絵はやめよう。」

 

美大に行く道などはやめて、社会のレールに沿う形で普通大学に進むことにしました。

 

世界は広かった

留学先の街並み

家の近くにあった神奈川県の鶴見大学に進学。

英米文学を専攻し、3年時には交換留学生としてオーストラリアの大学に長期滞在をしました。

 

そこは現地人も知らないような山の上にある小さな小さな田舎街でした。

何も無く、ただただ大自然が広がり、放課後の校庭にはカンガルーが飛び跳ねていたり、ホームステイ先の庭の木にはコアラがいるような異世界でした。

 

たったの9ヶ月間の滞在。

 

だけれど、この時の経験が人生に大きな衝撃を与えるには充分でした。

 

永遠に広がる乾いた赤い広大な大地、

突き抜ける程カラッとした高い空と風、

奇妙な生態の植物や動物。

「え、なぜ!?」が連発する多種多様の人種の文化、風習、生活。

 

また、逆に他の国々の人々も僕の行動、振る舞い、考え方に「え、なぜ!?」と思っていたようでした。

 

自分の当たり前は、当たり前じゃなかった。

 

世界の広さ・自由さ。

その場で体験して初めて心で分かること。

 

色々な考えを持っていて良い。

でもそれを人に押し付けてはいけない。

 

クラスメイトと

 

脳がスパークするほど驚きの日々を通し、

これまで信じてきた「常識」「正しいこと」というものが、自分の中でゆっくりと、しかし確実に崩れ始めていました。

 

社会のレール

お昼休み

帰国をして再び始まった日本の生活。

やっぱり日本のご飯は一番美味しいし、全部日本語対応だし、買い物も交通も便利なことが多いなぁと日本の良さを味わっていました。

 

しかし、周りと明らかに感じる

「ズレ。違和感。」

心の底に「社会のレールからはみ出してはいけない」「常識通りに生きないといけない」という根強くそびえ立った考えがある一方で、、「自由で良い」という考えが空高く自由に飛んでいる。

 

そうこうしている内に周りは内定を貰い始め、焦りを感じる日々。

「自由で良いんだ。それなら、自分はまた海外で暮らそう。」という強く明るい想いの裏腹に、「海外に行って何ができるのか。社会のレールを踏み外してしまう。」という恐怖と不安。

 

せっかく自分の中の世界はずっと広くなり自分は変わったと思ったのに、幼い頃から積み重ねてきた「常識」と言う芯は崩れてはいませんでした。

 

またまた「恐怖の力」が力強く僕を支配しました。そしてまた周りに合わせる形で一般企業に就職をすることに。。

 

 

就職をして一安心したものの、

人の命が掛かっている特殊な通信機器を取り扱う大変な仕事でした。残業代は出ないのに文字通り朝から晩まで業務をこなす、絵に描いたようなブラック・サラリーマンライフ。パワハラもあり、精神がボロボロと崩れ落ちていくのが分かっていました。

 

しかし、、辞めることは怖かった。

社会のレールから外れたくはなかった。

 

苦しくて食事が喉を通らない日もありました。

寝れない時もありました。

そんな時は布団の中で絵を描いていました。

 

今思うと、ヒーリングアートという絵を描くことで自分を癒す行動を自発的にやっていたのだと思います。

言葉じゃない形で内面を吐露していたのです。絵を描くだけで本当に不思議とフッと氣持ちが楽になるのでした。

 

「絵はやめよう。と決めたのに、やっぱり自分にとって絵は良いなぁ。。」

なんてしみじみ思ってました。

 

夜に描いてた絵の一つ

 

何度も困難にぶつかり、必死で考えて考えて行動。

「辞めたい」と何度も思ったけれど、逆にそんなストレス環境があったからこそ「考える力」といものが付いてきた感覚がありました。

それはまるで筋トレで筋肉に負荷を掛けて少しづつ力が付いてくるような感じでした。

1年、2年と経つにつれ褒められることが増えて良い成績も出せるようになっていました。

プライベートでもかけがえの無い人達に囲まれ、こういう暮らしも良いなと思えるようになっていました。

 

しかしどこかで「自分はまた海外で暮らそう」の火は消えることなく、ずっと燻っていたのです。

 

ふつふつと広がる「やりたい」という熱エネルギー。

でも辞めることは怖い。

今のこの生活も無くしたくない。

大切な人達と離れたくない。。。

でもやっぱり行ってみたい。

 

「やりたい」と「このままが良い」

心の中で相反する力がまるで陰陽のシンボルマークのようにグルグル回る。。

 

悩みに悩んで、悩み抜ぬきました、、、

きっと今動かないとこの先僕は一生動けない人間になると思いました。

 

 

「今。行こう。」

 

3年間必死に働いた会社を退職しました。
まだ内心ビクビクしている自分もいましたが、

それは、同時に国外へと踏み出す一歩であり、社会のレールからも踏み出す一歩でもあり、恐怖の力に打ち勝つ一歩でもあり、画家になる一歩でもありました。

 

海外生活で農業

バンクーバーの中心街

ついに始まった海外生活!

ワーキングホリデーのビザを使ってカナダのバンクーバーに渡りました。

東京に比べると遥かに小さく、自然が沢山広がっていたので空氣が美味しく、海と山が近くて、素敵な場所に来れたかもと思ってました。

 

世界的名著の「アルケミスト」という小説を何回も何回も読んでいた僕はその物語の主人公のように生きたいと思っていました。(旅する少年の話です。とてもオススメの本です!)

それは「前兆を読んで自分の感覚に従って生きる」と言う生き方でした。

 

そしてずっと燻っていた熱エネルギーを多くの挑戦の動力に充てるんだと意気揚々でした。

 

しかし、、、ここで順風満帆とは行かないのです。。。
新たな試練の到来です。

いきなり人種差別を街中の人達から受けることになりました。

 

直接的に暴力を受けた訳じゃない。

けれど、町中の出会う殆どの人が明らかに自分を避けている。まるで自分は半径2、3m程の透明の球体の中にいて、その中に他の人は入らないようにしたり、入ってしまったら小走りサササッとで避けたりしてました。まるで超能力者です。バスや電車などの公共機関ではほぼ必ず座席を独り占め状態です。

 

「差別を受ける立場がこんなにも辛いとは考えもしなかった。。」「まさか自分が。。」

 

そんなこともあってか、猛烈なホームシックもガッツリと襲ってきました。

 

辛い時、人は自然を求める生き物なんだと思います。僕も自然を求めて近くの離島へ引っ越しをしたのでした。

 

野良鹿

その離島では差別もなく、数ヶ月間2つの農場で住み込みで働いてみました。

WWOOF(ウーフ)というコミュニティを利用したものです。無料で寝食と農業経験を提供するオーガニック農場と、対価として農業の仕事を無料で手伝う労働者をマッチングさせるものです。(日本も含め、世界中にあるので興味のある人は是非!)

 

さて、炎天下の下での広大な土地の農作業はそれなりに大変でした。毎日、汗をダラダラかいて、日によっては家畜の糞を掃除しました。

 

丁寧にお世話をして、やっと収穫できる野菜。

それが鳥肌が立つほど本当に美味しかった。。

こんな美味しいもの土から生えてくるのが不思議でたまりませんでした。

 

朝露

日中の作業で土まみれになる日は、海に飛び込み。夜空、無数の星が散らばる下の壊れたキャンピングカーやテントで眠りました。まさか自分がこんな暮らしをするとは思ってもみませんでした。

 

心地良いその環境にずっと滞在することも可能でしたが、、

 

ある日の夜、転機は突然やってきました。

アラスカに行く不思議な夢を見たのです。

 

広大な美しい自然の景色が広がっていました。。妙にリアルで、頬を撫でる冷たい木々の風を感じました。あのアラスカ写真家の星野道夫さんも出てきました。

 

きっと何かしらの前兆だと感じました。

 

アラスカに行くことをすぐに決めました。

 

でもどうせ行くなら、色々な場所を見てから行こうと思ってしまったのです。なので一旦、アメリカ大陸の右端の方まで飛び、そこからわざわざ数ヶ月間かけて、大陸の左端にあるアラスカを目指してアメリカ大陸を横断する旅をすることにしました。

 

そのことをお世話になっていた農家のおじいさんに話すと、「おいおい、クレイジーだ。ダメダメ。無理だろ!」と目を見開いて言っていましたが、農場を離れる数日前の夜ご飯の時。虫の大合唱が鳴り響く家の外とは対照的に、とても静かな家の中でおじさんはこう優しく言ってくれました。「ここには君の帰る場所があるから、いつでもすぐ帰ってきなさい。」

過酷な移動生活

旅の途上。シカゴにて。

 

お金をあまり掛けたくなったので夜行バスやヒッチハイクなどの陸路で移動し、各街の見知らぬ人の家々のソファで寝かせて貰うという移動生活を繰り返しました。カウチサーフィンというコミュニティを利用したものです。

 

わざわざ無償で見ず知らずの旅人を泊めてくれる人は、本当に優しい人、見返りを期待する人、寂しい人など本当に様々でした。今もたまに連絡を取る仲の人もいます。

 

毎日、数えきれない人や景色と出会うことは、非日常でとても刺激的でした。我ながらふと「今旅してるなぁ」と楽しく思ってました。

 

しかしやはり勿論楽しいことだけじゃなく。

少し危険を感じる人の家にも泊まったり、詐欺に会い大金を無くしたり。

何より「すぐに帰れる家がない・明日泊まれる場所があるのかもわからない」という日々が続くことは精神的にくるものがありました。

 

もう立派な大人ではありましたが、

恥ずかしながら疲労、睡眠不足、トラブルなどが重なる日の夜は無性に悲しくなり、子供のようにワンワンと泣きじゃくってしまうこともありました。。

 

移動生活中の絵。泊めてくれた人にあげたら大喜びしてくれた。

そんな非日常だった移動生活が日常に変わってきて、Tシャツ姿からジャケット姿に変わり始めた頃、

 

ついにアラスカに到着していました!やった!

ただ、

そこはもう凄〜く寒い氣温になっていました。

地球との繋がり

オーロラ

移動生活のゴール地点でもあったアラスカは特別な場所だと感じてました。

 

この時もカウチサーフィンを利用して一か所にしばらく滞在するのですが、なんと、この時のオーナーは家を丸ごと無料で貸してくれました。。

その家には他の国々から集まる旅人が何人か溜っており、旅人ハウスのようになっていました。しかも無料で居たいだけ居ても良い。ご飯も無料で提供する。という羽振り。本当に色々な人がこの世にはいるなぁと思ってました。

 

「もう追われるように急いで移動しなくて良い」「泊まる場所がある」これらは凄く心の安定になっていることがわかりました。

 

なので、意気投合した旅人ハウスの仲間達としばらく観光らしいことをしてみました。デナリ公園に行ったり、温泉に行ったり、オーロラを見に行ったりしました。

 

旅仲間達と。デナリ公園にて。

 

そんなことしている内にご縁が重なり、偶然か必然か、森の中で暮らすとある家族のお家に数ヶ月間もお世話になることになりました。ちなみに、ここでもWWOOFを利用しました。

 

そこでの超ワイルドな生活が人生における掛け替えのない大切な教えになりました。

 

マイナス20度を下回る屋外での肉体労働。

どこまでも白い世界。

巨大な野生動物達。

 

カリブーの群れ

狩人だったおじさんは外で動物を見ると「ディナーだ!」と言って喜んで仕留めて、その日の夜ご飯としてご馳走させてくれたり。家畜として飼っていた動物も一緒に殺して食べました。

 

暖を取るために木を切りに行ったり、水を飲むために泉まで取りに行ったり。全てが凍るほど冷たい真っ白な世界の中に、ポツンと立つ手作りの木の家の中で、火を囲んで温かくて毎日笑い合った和気あいあいとした家族。

 

アラスカの家族

 

彼らと一緒に生活をしているうちに、すっかり忘れていた感覚。彼らの言う「地球との繋がり」の感覚を思い出すような感覚がありました。

 

生きるということは他の命をいただいているという事実。食事をする前の「いただきます」の言葉の重さ。

他の者がいて自分が生かされる。

自分も他を生かしている。

 

自分達もやがて死に、地球に還る事実。

 

人の温かさ。優しさ。

自分のことだけでなく他を想いやれる心。

 

それらは、人間という生物として、この地球という星に生きる上で大事なことであると強く感じるようになりました。

 

ネイティブ・アメリカン

公園にて

ビザの滞在期間の関係で、

本格的な冬が始まりだそうとしていたアラスカ生活に終止符を打ち、南下して海外生活の最初の場所カナダのバンクーバーに再び戻りました。

 

差別は相変わらず受けていたけど、すっかり開き直ってスラム街近くに住みました。道路の両脇にドラッグ中毒者達がごろごろと転がっているような異様な景観でした。しかし、なぜかそんなエリアで暮らして見ようと思ったのです。

そして数ヶ月間、現地人に混じってカフェやレストランでも働いてもみました。

 

そもそも、不思議と他の都市では差別を受けていませんでした。

またこの街にいる他の日本人達は差別を受けていない。。「なぜ自分だけなのか?」

 

色々な人に訊いたりしているうちに、

遂にその理由がわかりました!

それは本当に全く予想外な答えでした。

 

このバンクーバーという街はカナダ内では冬も比較的温暖なのでカナダ中のホームレス達が集まってくる傾向があること。その多くはネイティブ・アメリカンと呼ばれる原住民の人達だということ。彼らは長きに渡り迫害と差別の対象であること。

 

そして、なんと、当時の自分の容姿(浅黒い肌、黒い長髪など)がネイティブ・アメリカン達と酷似していたということでした。。!

 

容姿がネイティブ・アメリカンに似てた。

 

彼らについて調べていくと、、

本来は神秘的な価値観と生き方があるけど、今多くの人達は目を背けたくなるような悲惨な歴史と、現在も続く過酷な環境により虐げられており本来の姿から駆け離れていると知りました。

 

僕は調べるほどに彼らの魅力にハマっていきました。ずっと昔の太古から地球との繋がりを大事にする神聖な人達。

彼らの昔からの伝統的な考え方はアラスカで僕がやっと学べた「人間という生物として地球という星に生きること」において大事な教訓と非常に似ていました。自然と僕は彼らを尊敬するようになり、彼らに似ていることを誇らしく思ようになりました。

 

またスラム街のシェルター(州が無料提供している寝泊まり出来る広い建物)や路上に住んでる彼らと直接話しに行ったりもしました。貧困層にいる彼らの多くはドラッグかアルコールの中毒になってボーッとしていましたが、普通に会話が成り立つ人々もいました。

 

そして想像を遥かに超える事情を抱えて今の状況になっていることもわかりました。。

 

どんな人間でも、

 

「充分な愛」と「正しい教育」の両方どちらかでも不足すれば人は人として生きることが難しくなる。特に「子供時代」と言う期間はとってもとっても大事なんだ。

 

そう強く思うようになりました。

 

そんな色々あったバンクーバーを出て、今度はアメリカ大陸を南下する縦断の旅をすることにしました。これを最後の旅として進めるだけ進んで、帰りたい時になったら日本に帰ろうと決めました。

 

キノコ村

ここまでお読みの方!長らくお付き合いいただきありがとうございます。幼少期、学生時代、社会人、旅生活と続きましたがいよいよ最終章であり、

最も衝撃的で大事なパートになります。。

 

アメリカ、モニュメントバレーにて。

結果的にはカナダ、アメリカ、メキシコ、キューバ、グアテマラ、コスタリカと進んで日本へと帰国したのですが、道中に本当に多くの物語りが生まれました。。

 

地平線まで続く荒野、

インクを落としたような青い海、

うじゃうじゃ生物が動き回るジャングル、

キャンプ生活、巨大遺跡、優しい人々、、

数々のキラキラした思い出があります。

 

また時に早朝の薄暗い森の中で野犬の群れに囲まれたり、ギャングの銃撃戦の抗争に巻き込まれかけたり、登山した山で高山病になり幻覚を見たり、何度か「今、死ぬかもしれない」ということを意識しました。

 

グアテマラ。山の頂上にて。

 

とても全ては書ききれないので、ここでは省略します。。もしも機会があり興味があればお話しさせていただきます!

 

が、メキシコでの神秘的な体験だけはここに記したいと思います。

この経験が僕の人生、価値観、考え方を、宇宙規模で変えてしまったと言って良い程の経験でした。

 

僕が今画家の活動をしているのも、この経験が大きく関係します。

 

オアハカ近くの村のローカルマーケット。

 

それはメキシコ南部にあるオアハカという街を旅していた時のことでした。

悪い物に当たり腹痛で街の病院に1週間以上の通院生活をしていました。だんだんと元氣になってきた頃。体力と暇を持て余し始めていました。そろそろまた動き回りたいなと思っていたタイミングでした。

 

「ねぇ、Kota。2、3時間程離れた山の上に小さな村があるんだけど行ってみない?そこは別名キノコ村とも言われてて、幻覚が見えるキノコ?が食べれるらしいよ。」

 

たまたま同じ宿に滞在していた青年が大きなダイニングテーブル越しに言ってきました。彼はスラっと細身で、20歳くらいの今風の元氣な日本男児と言う感じでした。

 

「え、急に何それ!怖いよ!」と僕は笑いながら言い返しましたが、その話が心のどこかに引っかかってました。

 

ひっそりとスマホで調べてみると、確かにそういう村は存在していることがわかりました。そして検索に引っかかった昔の誰かのブログや記事にも辿り着くと興味が俄然沸いてきました。

 

その幻覚キノコというものは、古代からシャーマニズム文化の儀式で使われてきたこと。シャーマニズム文化とはあの尊敬するネイティブ・アメリカンの平和的な文化であり、長い長い歴史を持った原始宗教であること。

1960年以降のアメリカでのヒッピーブームに関わっていること。

アメリカでのある実験でそのキノコを食べた人達へのインタビューで8割以上の人達が「私は以前よりも他人に優しくなれるようになった。あれは最も素晴らしい経験の一つだ。」と答えていること。

など。

 

。。。色々なことが重なって今この現状がある。この前の町で体調が悪くなったおかげで、この青年と出会えた。そしてちょうど治るタイミングで声を掛けられた。。

 

かなり行きたいかもしれない。。。

 

これは「何かの前兆」かもしれない。

 

とりあえず、現地に行くだけ行ったら良い。

嫌ならまたこの宿に戻れば良いだけの話だ。。

 

2日後の朝、僕たち2人はキノコ村行きのバスに3時間ほど揺られていました。

うとうとしていてましたが、ふと窓の外に目をやるとシトシト雨と深い霧に囲まれた真っ白な世界をバスは慎重に慎重に崖の道を走っているという状態でした。遠い所まで来たんだなと思っていました。

 

無事に村まで辿り着きバスを降りてみると、少し肌寒く、濡れた森の良い匂いがしていました。

 

霧に覆われた山上の小さな村。

 

宿に荷を下ろし少し休憩した後に2人で村を散策してみました。

別名「キノコ村」と言われているだけあって、人が少なく静かで霧に覆われた村の中にはキノコをモチーフにしたアート作品や、サイケデリックアートと呼ばれるカラフルなアートがどこにでもありました。

 

いかにもヒッピーと呼ばれるような長い髪の毛と髭を生やした若い欧米人達がいたり、

ずっとそこで生活を営んできた感じの村人達がいました。

 

彼らを見かける度に「幻覚キノコはどこで手に入るの?」と聞いてみました。

 

するとみんな口を揃えてこう答えました。

「あぁ、それなら持ってるよ。良ければ僕のを売うか?」しかも村の決まりごとなのか皆んなが同じ値段を言いました。この時、それ以上に印象的だったのは皆んなが「妙に優しい目」をして微笑んでいたこと。

 

どこか遠くを見ているような、でもこちらの目を真っ直ぐに見つめていて。「そうか。君もここまで遥々来たんだね。」と言いたげな慈愛に満ちた表情。まるで幼稚園や小学生の卒業式の姿をそっと見届ける親御さんのあの独特な優しい眼差し。

 

「いや、ただ聞いただけだよ。ありがとう。」

内心まだ怖かった僕達2人は「どうやら話は本当らしい」と話をしながら宿に戻りました。

 

「ちょっとやっぱ怖いよなぁ」と思う反面、「せっかくここまで来たのだから」という思い。宿のテラスでボーッと霧がかった山を見つめていると宿のおばさんがこちらに向かって歩いてきました。

 

「やぁ、おばさん。あの、もしかしてあなたもキノコ持ってたりする?」

「ええ、もちろん。欲しいの?」

おばさんは優しく微笑みながら「ついておいで。」と言い、宿に直結している近くの自宅に入っていきました。

 

2人で目を見合わせて後をついて行くと、

自宅の冷蔵庫からまるで「多めにカレー作ってしまったから、良かったら食べない?」

というような凄く自然な感じで大量のキノコが入ったザルを僕達の前に差し出してきました。

 

冷蔵庫から出てきたキノコ

 

「1人5つでワントリップだよ。」

 

家に居た小さい男の子が「これが大きいよ」なんて指さしたりしてました。

おばさんは「ほらほら、触ってはダメよ」なんて仕草をしてました。

 

その情景一つ一つがこの村でのありふれた日常の一コマであることを物語っていました。

 

場所が違えば常識も違う。

郷に入れば郷に従え。

 

僕達2人はおばさんからキノコを買い、その晩に宿の部屋で食べてみました。

 

おばさん推奨の「洗わないでそのまま食べる」を実践したら土も沢山混じっていました。

「ジャリッ。ジャリッ。」とした心地の悪い食感。。

 

そして何より不味い。この上なく味が確かに不味い。苦味というものが半端じゃない。

 

その時に持っていたチーズやスナック菓子で味を誤魔化そうとするがこの不味さは払拭できず。これまで生きてきて最も不味い食べ物をやっとのことで食べ切りました。。(いや、食べ物と呼べるかも怪しい。。)

 

 

。。。しかし、何も変化はない。

1、2時間と経っても一向に変化が無い。。

 

おかしい。

 

騙された?

 

僕「これは、もしかして、あのおばさんただの不味い普通のキノコをくれたんじゃないの?」

青年「おいー、ふざけんなよー!笑」

 

と、笑い合いながら話し合い、

まぁ笑いのネタ話には出来るんじゃ無いのかと2人でプラスに捉えようとしてました。

 

 

しかし、その時は急に訪れたのでした。。

 


 

これより、かなり常識離れした内容になります。(汗)いわゆる、「神秘体験」の話です。もうSFのような内容になってきますのでご覚悟を。。(ゴクリ)

 

キノコ

超常現象

不思議な世界の景色

木が組み込まれて出来ている木で覆われた部屋。そこに大きめのベッドが2台「ドン。ドン。」と置かれているだけのシンプルな作り。

 

僕は自分のベッドに仰向けで寝転んで、天井の木目をボーッと眺めていました。

 

その時です。目の前を大きな緑色の綺麗な鳥が悠々と羽ばたいていました。中南米に生息する希少な鳥のケツァールに似てました。この鳥はあの手塚治虫の火の鳥のモデルにもなった鳥でもあります。

 

「・・あれ?鳥が居る!?」

 

そう思った瞬間に鳥は消えてしまい、部屋も普通の部屋に戻っていました。

 

少し驚きながら、

「。。そうか。これは、いよいよ何かが始まるんだな。」と興奮していましたが静かに思いました。

 

「やっぱり、あのおばさん。ちゃんとしたキノコを渡してくれたと思うよ」

と、僕はそう言いながら少し離れたベッドに同じように仰向けになっていた青年を見ました。

 

すると彼は静かにこう言い返しました。

「うん、天井にチョコワがいっぱいあるね。いっぱい。」

 

よく分からなかったですが、彼の中でも何かが始まっていたようでした。

 

あっち側

 

ただ暗かった室内が段々とサイケデリックと言われる色彩に変わっていきました。

キラキラと鮮やかに光り輝き、ふわふわ動く幾何学模様は万華鏡のようでもいて、生物や海のようにうねってもいました。

 

噂には聞いていた景色。街中で見たサイケデリックアートのような世界感。

 

「スーゴーッ!そりゃそういうアート描きたくなるよ!」と興奮しながら感動していましたが、

「ああ、本当にこういう世界に包まれるんだな。」と意外と冷静な自分もいました。

 

また不思議な現象は聴覚も巻き込んでいきました。聞こえる物音は綺麗な波のようなものとして具現化して目で見えたのです。「あぁ、音はこうやって反響していくのか」と、壁や天井に当たって返ってくる音の波を目で追って考えてました。俗に言う「共感覚」というものが発現していたのだと思います。

 

「これはやばいんじゃないか!」と罪悪感を抱え始めている自分と、

「すごい、美しい!心地良い」と感動して肯定する自分。

 

でもそんな現象はまだまだ単なる序章に過ぎなかったのです。。

 

ここから僕はより深く、深く、不思議な世界へと入っていくのでした。

 

 

しばらくして、何を感じたのか青年が唐突に彼の身に起きた過去の出来事を僕に語り始めました。

「実はこんなことがあって、こんなこともあったんだ。。」

 

その話は僕に出会う前の青年の旅の話でした。

どうやらその青年は彼女としばらく一緒に旅をしていたけど、道中でフラれてしまい1人悲しく旅をしていたとのことでした。まるで彼の抱えていた感情を吐露するかのごとく、彼は喋りながらボロボロと大粒の涙を落としていました。

 

。。とても、とても、不思議な現象でした。

 

「うんうん」と最初僕は静かに聞いていましたが、彼が初めて話すその内容は全部ずっと前から知っていたのです。それも自分の身に起きた話のように。なので相槌が「ああ、そうだったよね。」になっていくのです。

 

この「前から知っていた」と言う感覚は厳密には、、「世界の記憶を共有している」と言う感覚です。

 

僕はフラれた彼の記憶と感情もあるし、

なんとフッた側の彼女の記憶と感情もある。

 

同時に僕は彼の経験した出来事を少し離れた上空から見ている記憶もあるし、

なんなら、その日に彼が立ち寄った花屋さんの店主の記憶もありました。

 


 

そして、その次の瞬間。。

 

なんと、僕は、、

 

「今ここにいる青年」になっていました。

 

つまり、、

本来の肉体の僕自身に対して、また別の僕が話をしていたという状況です。

 

まさか、生きているうちに語り手と聞き手を一辺にやる日が来るとは。。

 

 

一旦、、、一旦、落ち着こうと、、

ベッド脇にあったペットボトルの水を飲みました。すると今度は今まさに自分で飲んだ「水」そのものにもなっていました。

口の中に「それっ」と全身で入って、喉と食道をスルスルと通り抜けて、胃の中へドバドバっと流れていく感覚です。

 

 

ここまで来ると「もう全てが自分だ」と言う感覚になっていました。きっとあの時の僕はどんな人にも生物にも物にも水にも空氣にでも何にだってなることが出来たのだと思います。

 

そして僕はその不思議な力を持ったまま、「ビジョン」と言われる別世界へ意識だけがフワフワと飛んでいったのでした。

ワンネス・全ては1つ

龍宮の遣い

ここで一応、説明をしておきますと。

「ビジョン」とはネイティブ・アメリカン達の宗教であり文化である「シャーマニズム」の儀式の最中に誘われる別世界のことです。

一般的にビジョンを見ると言うと別の世界を旅をする感覚に近いと言われています。人や環境、精神的な状態などによってそのビジョンの内容は異なりますが、不思議と旅の最後に辿り着く先は似ていたりと、多くの共通点を持っています。

 

ビジョンを経験すると、以前は無かった人生への氣付き、霊性的な目覚めを得るなどと言われています。

何度もビジョンを行き来し、そして人をビジョンへ導く者達はシャーマンと呼ばれます。あまり知られていないですが古代数万年前の壁画にも描かれている歴史あるものであり、古代よりシャーマンはビジョンより叡智を得て、民衆(ネイティブ・アメリカン達)を平和的に自然と調和しながら生きるように導いてきた歴史があります。

 

以降は僕のビジョンの話になります。

 

。。。

 

。。。。。

 

。。。。。。。

 

ふと、氣が付き目を開けると僕は幼少期の自分になっていました。

 

そうです、あの内気で人見知りな少年です。

その小さい僕はかつて通っていた幼稚園の屋外の遊び場にいました。そして何故か目の前には僕を強く叱っている先生がいました。

 

「あ、この光景、なんか知ってる」と思いました。

 

それは完全に忘れていた記憶。

でも確かに僕が過去に経験した記憶でした。

 

何を言っても先生に言葉を遮られ、

何も分からないまま大きな声で叱られ続ける。

 

「なぜ、ここまで先生が強く叱るのか。」何も理解できないまま泣きじゃくるだけでした。。

 

そう思い出していると、、、

 

次の瞬間には僕はその先生になっていました。今度は小さい子供(僕)を叱る大人の先生の目線です。すると当時の先生の事情(背景も感情も能力も)を瞬時に理解しました。

 

「ああ、そりゃ先生も怒るよな・・」「この人もこの人なりに大変だったんだなぁ。」と納得してしまいました。

 

そう思うと今度は、そんな2人の人間のやり取りの光景を、少し離れた所から見ていました。

 

 

つまり、、

 

僕はビジョンと呼ばれる異世界に意識が飛んで、過去の自分になり、その時に自分に関わっていた人にもなり、さらにその光景を少し離れて客観視もしていたのです。

 

 

僕のビジョンはこれまでの人生の軌跡を再体験すると言うものだったのです。

 

僕はこのような不思議な追憶体験を細かく、細かく、幼少期、学生時代、社会人、旅生活、そして今の自分に至るまでの人生を

 

 

 

ガーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!

 

 

 

っと、再体験しました。

 

すっかり忘れていた事から、すっかり忘れていた人まで。記憶が鮮明で楽しかったことから、悲しかったトラウマ体験まで。

 

それはあまりに長い時間、

途方もなく長い時間、膨大な情報と感情のエネルギーが流れ続けました。

 

その渦に何度か飲み込まれそうになり、「長いよ!!もういいよ!十分だよぉ!!!!」と途中何度か叫ぶほどでした。

 

心の中の怪獣

 

 

現実時間にしておそらく5、6時間くらい続いたと思います。しかし、体感時間では短く見積もって「1年間くらい」はその世界にいました。

 

約1年間をかけて今まで人生の全てリアルに再体験したのです。

 

 

あの時は分からなかった。。

けれど、相手になることでわかること。客観視することでわかること。

 

 

その時は悲しかったり、苦しいと感じていたことも、理解できずにいたことも、全ての出会いも、別れも、物事も、偶然だと思っていたことも

 

その全ては必然だった。

 

偶然はなかった。

 

その全ては完璧なタイミングだった。

 

その時の自分だけが最悪だとか、悲しいとか、良かった、偶然だとか決めつけていただけだった。

 

あの時、幼稚園で先生に叱られたことも。

学生時代にアートを挫折したことも、

社会人になりボロボロになったことも、

人種差別にあったことも、

旅生活で死にかけたことも、

 

全ては必要な経験だった。

 

 

劣等感を抱えていたあの環境があったから、絵にハマった。

絵を挫折したから、普通大学に行って海外留学をして世界の広さを知れた。

会社員になったから、考える力が付いた。素晴らしい出会いもあった。

人種差別にあったから、地球との繋がりを思い出した。人の暖かさを知った。

ネイティブ・アメリカンについて、人間について深く考えるようになった。

 

そして今、それらが複合的に存在しているから、一人世界を旅するようになってこの境地まで来れた。

 

どれも欠けてはいけない。

どれかが欠けていたら全てが成り立たない。。

 

この地球に僕という人間として生きてきたことで、得られた欠け替えの無い素晴らしい体験だ。人生はなんて、なんて、有難く尊いのだろう。。

 

 

そのような一つ一つの事象の点を繋げて、

 

人生の軌跡の流れを俯瞰してみると、

 

それはそれは一本の完璧な美しい線になっていました。。

 

そして知りました。

 

「ああ、ずっと僕のこの魂は導かれていたんだ」

 

導き

 

僕はこれまで出会えた人達みんなに感謝が止まらなくなりました。そして全ての物にも、事象にも感謝が止まらなくなりました。涙を大雨のように流し続けました。

 

お互いが居るからお互いが学びあえる。一人じゃ決して味わえない感動、感情、教訓、思い出。それぞれの魂が地球に学び来ているんだ。

 

お互いが居ることでお互いが生かされている。生きている者たちは皆んな他の命を食べて生き延びている。道具として使っている。

 

人間も動物も植物も物も、この世界の全ては一つだ。。

 

 

「全ては愛であり、宇宙である。」

歴史上の凄い人達や宗教家の人達が揃えて口にしていたこの言葉。正直、「胡散臭い。意味わからん。」と鼻で笑ったことさえもあったこの言葉。それをはっきりと理解してしまいました。

 

 

相手を愛することは自分を愛すること。

自分を愛することで、他を愛せる。

 

相手を傷つけることは自分を傷つけること。

自分を傷つければ、他も傷つける。

 

皆んな宇宙のエネルギーの一部なんだ。

 

 

 

 

 

 

そうか

 

 

 

 

 

 

 

僕達は皆んな、一つなんだ。

 

 

 

 

 

セレモニー

 

。。。。。。。

 

。。。。。

 

。。。

 

 


 

 

朝が来る頃、僕は現実の世界に戻っていました。

 

あれだけ凄い経験をしたばかりなので、何を持ってこの世界が現実と言えるのだろうかとも思っていましたが、ここは現実だと直感的にわかっていました。

 

そして、まだ頭は少しボーッとしていました。

 

 

外に出てみるとあれだけ村を覆っていた深い霧はすっかり晴れ、山の隙間からキラキラとした太陽の光が優しく差し込んでいました。鳥と虫の鳴く声がチロチロと聴こえていました。相変わらず少し濡れた森のような空氣が肺を満たしてくれていました。

 

そして、僕の頭にずっとあったであろう霧も晴れている感覚があり、強くこう想いました。

 

 

これからは人にもっと優しくなろう。

もっと自分を大事にしよう。

1つ1つの出会いを大事にしよう。

またアートをやろうと。

 

旅の途上。

そして現在

 

数ヶ月後、僕は無事に日本に帰国しました。

 

が、、、

 

ここまで、、正直かな〜〜り、ぶっ飛んだお話ですよね〜。僕もそう思います。。

 

もしかしたら、人によったら「この人ヤバイ人なんじゃない?」と危ない人だと思ったりするかも知れません。

僕を以前から知ってる人は離れて行くかも知れません。

あるいは「凄いなぁ!」とか「面白い人だ!」と肯定的に思っていただけてる人もいると思います。これを機に新しい出会いの輪が広がるかも知れません。

 

どう捉えていただいても大丈夫です。

しかし、結局の所、このページのここまで読んでいると言うことは、僕達は共鳴し合う似ているもの同士かもしれません。

 

なんというか、個人的には途中まで道に迷いながら躓きならも歩いて進んでいたところ、うっかり急流の川に入ってしまい本当に思いもよらぬ所まで来てしまったと言う感じです。人生って、予期せぬことばかりですね。。

 

しかし、そこまで行けたからこそ、やっと心から理解できたこともあるし、確実に前よりも人に優しくなれたと思っています。本当に皆んなに感謝しています。ありがとうございます。

 

最後に

夜明け

 

帰国してから東京の実家に戻り、多くの書籍を読み漁り、youtubeやDVDなどの動画も見漁りました。この世の多くの光と闇を知りました。今現在でも勉強を続けていますが、僕が強く感じた「この世界の全ては一つだ。僕達は皆んな、一つなんだ」という考えは「ワンネス」と言われていることがわかりました。

 

また東京ではご縁で氣功師の元で東洋の神秘である「氣功」を学び、習得をしました。

アート作品には沢山の氣功を用いています。

 

僕はこの人生でアートを通して、

自分の人生をより深く味わうと同時に、

この世界と人類をより良い状態になる為の手助けが出来ると信じています。

 

もしも、生きていて苦しくなった時、力が欲しい時、僕のアートを観に来てください。

ボーッと眺めるだけでも良いし、スマホなどの待ち受けにしても良いです。

きっと癒され力が湧いてくることを実感できます。

 

 

僕達は皆んな、一つです。

 

 


 

・・・

 

 

ここまで僕の稚拙な文に辛抱強く長くお付き合い下さり、誠にありがとうございます。

アートに関して、旅に関して、何でも聞きたいことがありましたらいつでもご連絡ください。

ページ上部の「SNS&連絡」に行きますとメール、line、インスタ、facebookなどの情報が出てきます。いづれかの方法でご連絡いただけたら嬉しく思います。

展示会も自分のペースで出展するようにしています。いつの日か機会がありましたらお会いしましょう。それはきっと完璧なタイミングで訪れます。

 

それではその時まで。

 

ありがとうございます!

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